五地蔵山に向かうと右端に緩やかに長く続く尾根が牧場に向かって降りているのが解ります。
この尾根は凄い竹藪で雪上でしか通る事ができませんでした。五地蔵とは一不動、二釈迦、三文珠、四普賢、五地蔵、六弥勒・・・・と乙妻山まで続く13仏を祀る山岳宗教の中間点。
五地蔵山は標高が1998mもあり見晴らしの利く、高山植物や秋の紅葉は見事な山ですが既存のルートでは「高妻山」の途中ピークでしかありませんでした。「五地蔵山を一つの山」として楽しみたい・・。「高妻山のルートから独立させる」事をずーっと考え続けておりました。それともう一つ・・・、20歳から45歳までの25年間「戸隠山岳遭難救助隊」に所属しており、戸隠山、西岳、高妻山等々から年間3〜4名の遭難者を搬出していました。戸隠山、西岳の遭難は「遺体」を意味していました。多感な青年期遺体収容の夜は悲しくて寝付けませんでした。晩秋のある時「高妻登頂」に失敗し疲労困憊した人を背中に背負い、帯岩を通過する際、夕暮れの足元は既に暗く、岩には「薄氷」がついて、前後でビレーはとってあるものの、自分の命の危険との綱渡りに、「この地点を何とかしなければ・・・」との思いを強く持ちました。
その後、「遭対協」によって、足場に沿ってトラバース用の鎖をルートに沿って設置しましたが、雪と氷の力で吹き飛んでしまいました。度々の工夫によって、現在のルート上に短い鎖が「縦」にぶら下げられる様になりました。これは雪や氷に飛ばされないようにするためです。自分が通り過ぎたらそのままにして置かないで支点から真下に下がるように戻して下さると、次の人が通るときに使いやすくなります。近年「百名山ブーム」とかで高妻山へ登る「ツアー」が増えてきました。20人くらいのグループが2〜3重なると、夕方の「帯岩」で渋滞が起きてしまいます。
晩秋の夕方は岩が凍ってきます。そんな状態を見ると他人事とは思えず「何とか無事に下りてください」と願わずにはおられませんでした。救助隊退役後10有余年が過ぎ、山歩きも「ビスタリモード」になり・・・。2001年8月「還暦」を迎える事になりました。山を歩いて40有余年喜びも「辛い悲しみ」もこの山の中で味わいました。この山に何かを「お返ししたい」と思い、「開道」の決意を致しました。地元の山の仲間たちにも手伝ってもらい、10月末、開通しました。折から来日中の老練のシェルパ「ターメのアンパサン・.シェルパ」にヒマラヤンスタイルでルートの安全祈願をしてもらいました。「香草」がないので彼は「ヨモギの枯葉」を集めそれを燃やして「煙」を作りました。「アンパサン」の唱えるお経に合わせてその「煙」はルート上を這うように伝って尾根筋を高く高く登って行きました。その後、大勢の人に踏みしめられて五地蔵山への新道「弥勒尾根新道」ができました。
ルートへの入り方
登りは・・・牧場内を既存ルートで行くと左に「赤いとんがり屋根」の小家畜小屋がありそれを過ぎると右側に大きな山桜がある。そこに牧柵があります、そこを右に曲がり作業用道路(地図上赤い線)を東に進みます。すぐに川を渡り作業用道路に沿って進みます。前方に川音が近づくと作業用道路は右に曲がって下りていきますがその曲がり角が「入り口」です。作業道から分かれて左に入り(地図上青い線)川を渡ると左の斜面に赤、又はピンク色の テープがついています。後は一本道です。
下山時は・・五地蔵から高妻のほうへやや下りかけた右側に「六弥勒」の祠があります。その真後ろにある尾根道です。高妻からは五地蔵の登り「七観音」を過ぎ稜線に出たところの左に「六弥勒」の祠があります。ここが入り口、下りは「竹」でのスリップと「躓き」に特に注意して下さい。牧場に出たら作業道に沿って西の方角に進むと既存ルートの牧柵に出ます。
*当然の事ですが尾根道ですので水場はありません、登りは既存の一不動経由で行くと一不動手前の「帯岩」をすぎてガラ場の川を登ると湧き水の「氷清水」があります。
この「氷清水」いつの間にか一杯清水と地図やガイドブックに記されるようになりましたが本当の名称は
「氷清水」が旧来からの呼び名です。